編集とデザインのちがい/予算のないところからブランド化

全然ちがうテーマだけど、

両方が頭の中にごちゃっとしてたので

両方をタイトルに入れてみた。

 

ブランドエディターって何ですか?

って問いに対して、ある程度の概念が

ある人にとってわかりやすいのが、

 

ライターの上位版ですよ、ということ。

 

デザインも同じと思っていて、

Webデザインやグラフィックデザインという

狭義のものから、

 

サービスデザインや

インクルーシブデザインなんていう広義の

デザインもある。編集もきっと同じだろう。

 

狭義では記事の編集者だけど、

コミュニティやビジネスモデルを編集してもいい。

 

ブランドエディターは、

「書く」ことが存在する、あらゆるところに

登場することができる、

 

デザインでいうところの

クリエイティブディレクターと同じと思う。

 

この両者の違いは何か?

 

個人的にはあまり大きな違いは

ないと思ってるけど、

でも決定的に違うこともありそう。

 

 

デザインは、新しい切り口や定義を

与えるものって印象がある。

 

ちょっと調べてみる↓

 

・体験やサービス全体に目を向けて設計していく

・形づくる行為や計画・企画する作業そのものを「デザインする」という動詞で捉える

 

「ある問題を解決するため」という部分には「問題解決」

「思考・概念の組み立て」とういう部分には「設計」

「様々な媒体に応じて表現」という部分には「見た目」

 

 

うんうん、そうだそうだ。

起点にはいつも「問題解決」がある。

デザイン思考がそうだもんな。

 

じゃあ編集はどうだ?

調べてみると、ほとんどが藤本智士さんと

モリジュンヤさんのものばかりがヒットする。

こちらはけっこうマイナーな感じだ。

 

藤本:
僕が思う編集力とはズバリ、「メディアを活用して状況を変化させるチカラ」です。

ただコーヒーを撮るのではなく、どんな背景を選び、写真は誰が撮り、どんなコメントを載せるのか、ほんとにコーヒーだけでいいのか?など、総合的なプロデュースを含めて、編集者ということです。

 

人間の知的活動のきわめて大きな部分が統合作用によっているわけで、人間はすべて生まれながらのエディターである。オーケストラの指揮者、仲裁者、司会者、演出家、生花を活ける人、デザイナーなどなど、不調和を高度の調和にまとめ上げる機能を持つ人たちは、すべての人に潜在しているエディターシップを顕在させている氷山の一角であるにすぎない。

新聞、雑誌などの〈編集〉は、その氷山の小さな一角のさらにまた特殊な一部でしかない。したがって、エディターシップとは、いわゆる編集にその露頭を見せている全人間的機能ということになる。人間の文化とはこの広義のエディターシップの生んだ文化である

 

ミュニティができそうなくらいのテーマのサイズ感でメディアを作るのが良いんじゃないか、という風に思います。

メディアとコミュニティの話は『新世紀メディア論』という小林弘人さんが書いている本があって、ジャンプだったらジャンプを読んでいる人たちのコミュニティがある、ということが価値になっているという話をされてます。

 

僕はメディアやりたくてメディアをやっているのではなく、何らかの目的があってそのためにメディアがあった方がいいという発想でメディアを作っていることが多いです

例えばIoTで新しいもの何か作りましょうとなった時に、ハードウェアの専門家だけ集めてきても新しい物は生まれ得ないわけですよね。

 

年々、やることを増やして来ていて、個人がいろんなことをやっているように見えるんですよね。そうではなくて、色々仕掛けている本体がちゃんとチーム化されている状態を作りたいな、というのがありました。そうしないと各プロジェクトへのコミットも増やせないし、それぞれのプロジェクトを伸ばすこともできないので

 

コミュニティを編集するとかあって、対象物との距離感で広さが変わってくる

その流れは「デザイン」という言葉が辿った道と同じ道を辿っていくんじゃないかと思っていて

広義の世界に行くと、あまり業界が変わらないんですよね、編集もデザインも。広義のところに行くと、抽象度が上がって来て、編集、デザイン、コンサル、広告系、いろいろな人たちとの何かしらの競争みたいなものがある時に、差別化のために最終的なアウトプットとして持っているのが狭義の編集になると思っています。

 

入口の話なのか出口の話なのか、両方あるなとも思うんですけど。起点がどこに由来しているのかというのは、広義の編集の仕事をしていく上でも大事になってくる

 

形に落とすってところで差別化していかないと、抽象性の高いものってあまり差別化要因にならなくて、そうすると何が辛いかって、ハードウェア的にすごいもの持ってるところに負けちゃう。例えばアクセンチュアのコンサルの人が出て来たら、システム開発部隊持ってるとか。そういうことと勝負するとなると辛い

 

広義の編集では、ストーリーをどう作るかとか、コンテキストをどうプランニングするかとか、それに加えて、それをやることによってどういうコミュニティを作るかとか、どうやって周囲のステークホルダーとエンゲージメントするかとか、直接事業を生み出す、プロジェクトを編集するという話もあると思います。デザインの流れに照らし合わせるのなら、「経営を編集する」とかもあると思うんですよね。

 

従来の編集というアウトプットの作り方から、横展開していける。メッセージの届け方が、組織の変革だったり個人をどう変容するかというようなことと結びつけていけると、またさっきの経営の編集とかプロジェクトの編集とかとは違う領域で、自分たちの広義の編集ができるんじゃないかなっていうのをぼんやりと考えている

専門家が掘れるところよりも深いところまで掘れる編集、ってあるのかも知れないね。専門家の人が一人でやっているものとかを束ねることによって、学会とかあるけど、それも専門業界みたいな話

 

モリ メディアの立ち上げや運営、モデレーター、コピーライティング、SNS運営からイベントの企画運営、そしてリサーチやフィールドワーク、ワークショップやファシリテーションまで……。編集の技術を用いて、本当にいろいろな領域の仕事を手がけるようになりました。ただ、そうするうちに、『自分たちは何者なのか』とアイデンティティを見失いつつあるような感覚もありまして。だからこそ、インクワイアでは独自に編集者の定義を取り決めることで、アイデンティティの基盤を強固にしているんです。

 

モリさんは「編集」を分解すると、①調査 ②企画 ③調達 ④開発 ⑤流通の5つの工程に分けられると考えているそう。まずは編集する対象の人や組織を「調査」し、どのような切り口で切り取るかを「企画」します。その後、取材をはじめとした素材の「調達」を経て、執筆・コンテンツ編集といったアウトプットの「開発」を行います。最後に、メディアなどでの「流通」に載せることによって、受け手が記事やプロジェクトといった情報を享受できるようになるのです。

 

www.cultibase.jp

 

編集の場合は、前提に「メディア」があるんだな。

 

このメディアについても、Webや紙、テレビ、ラジオみたいな話から

「ホテルもメディアである」という考え方もある。

 

メディアも編集も、どちらも広義にできるからややこしいな。

 

そのうえで、最終アウトプットが「文章」であることが

デザインとの大きな違い、アイデンティティの差。

 

でもそれってどういうこと?

だれにとって、どんな意味があるの??

 

感覚的に思うのは、

Wantedlyがデザインドリブンではなく、

テキストドリブンなところかなぁ。

 

それは、インハウスエディターの方が

クリエイティブディレクターのポジションで

率いてきたからなのだけど、

 

なんか差がある。

この「なんか」が言語化が難しい。

 

 

 

話は変わるのだけど、

予算のない農家さんをブランド化するには

結局コミュニティとか行政とか大企業資本とか、

なんかそういう方法しかないのか?という問い。

 

結論、そうだとは思う。

 

お金はないけどブランディングしたい。

じゃあやっぱりPRやブランディングなど、

専門的なことを学んで実行するしかない。

他者が介在して何かできることはない。

 

じゃあなんで、予算が出るところには

他者が介在するのか?なぜインハウスではない?

リソースの問題以上に、外部の視点だと思う。

 

インハウスありきで、初めて他者の介在の

余地が出るのだとしたら、すべてはまず内製化から。

 

でもうちはリソースの問題、

たとえば広報担当者の壁打ちの段階から

支援に入ったりする。

 

準・内製化というか?

つまり「伴走」ってことだよね。

 

その伴走の費用も払えない小規模事業者の

ブランド支援といったら、できることは限られる。

 

よくあるのはコミュニティ化して支援するとか、

安く幅広くコミュニケーションを取る方法。

 

うちでやろうとしているのは、

養成講座の形で技術のシェアなのだけど。

 

そうでない場合、

買い取ってブランド化する、みたいなこと??

 

買い取って、認知とブランドを広め、

戻してあげる。OEM的なものじゃなく。

 

いずれにしてもビジネスモデル、

経営のデザイン、いや編集の領域に入っていきそうだ。

 

これはもう養成講座ではなく、

ラボ的にやっていかないと専門家ひとりの

知識量で賄えるものじゃない気がする。

 

 

いづれにしてもブランドエディターとは、

ライターの上位概念であり、

広義のメディアを広義に編集し、

最終のアウトプットが「文章」ということ。

それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

あえてアウトプットの差をいうならば、

デザインは直感的で、文章は論理的、ということか。

 

デザインはイメージで右脳に働きかけ、

文章は「パターン認識」を報酬として人の脳に授ける。

 

言語化は一種のアハ体験。

説明できるようになったすっきりした状態は、

ひとつの統率力を持つのかもしれない。